report /// vol.3 湊川編:1.湊川公園〜雪御所公園
2019年1月12日朝10時、湊川公園に集合
参加者11名が湊川公園の時計台の下に集まった。持ち物のとして指定した石を皆それぞれが持っている。
湊川公園は、元々湊川が流れていたところに作られた都市型公園(広場)だ。湊川は明治期の大規模な付け替え工事によって元の流路が埋め立てられ、公園や繁華街、道路となった。天井川の名残のある湊川公園から、今回の道行きがはじまる。
湊川の付け替え工事が行われたのは、大まかに言えば大水害と神戸港修築という二つ出来事が起因となった。神戸の街の背後に連なる六甲山系は、花崗岩とそれをおおう真砂土からなっており、地質的に大雨になると山の地盤がゆるみやすい。幾度となく、崖崩れ、山津波、鉄砲水が街に押し寄せてきた。(とくに1938年の阪神大水害では、六甲山系の複数の川が氾濫し神戸の街一帯に大きな被害をもたらした。)また、この付け替え工事は日清戦争、日露戦争の前後にあたる1896年〜1934年にかけて行われている。富国強兵、殖産興業などなどの厳めしい言葉が叫ばれた時期だ。この時、国家事業として大型船が停泊できるくらいの世界規模の港にと、神戸港の修築が行われた。それに伴い、水害で土砂が港に堆積するのを避けるため、湊川の改修工事が行われた。これにより湊川は神戸港の西側に流れ着く流路となり、大きくその姿が変わった。そしてもともと川だったところは埋立地となった。(そこには、川崎造船所が建ち、日本の軍艦を作る拠点となった。)
…というような歴史のあらましを、企画の古川が身振り手振りを交え、湊川になりきりながら説明した。(下は、その時の写真と、参加者の方がその場で描かれたイラスト!)
今回の「おもいしワークショップ」は、ゲストに社会学者の稲津秀樹さん(写真下)をお招きした。移民研究がご専門の稲津さんは、震災以前の幼少期を長田で過ごされ、街を離れてからも足繁く通いながら長田の街の変化を見てこられた。稲津さんには、街歩きで立ち寄る様々な地点で、土地にまつわるお話を震災、水害、戦争、 移民、差別といった多様な観点からお話しいただいた。社会学者としてフィールドワークする姿勢と、調査対象となる他者への想像力を結びながら独自の研究をされている稲津さんの感度の高い語りが、この道行きをより多層的なものへと拡げてくれたように思う。また、企画の事前リサーチに際してもご協力くださり、様々な知見や資料を提供してくださった。
10時45分、湊川公園を出発
いつの間にか公園で40分近くも過ごしていた。ようやく道行きがはじまる。
公園の北側(ここも湊川跡地)は、活気のある商店街がつづいている。戦前は公設市場で、神戸大空襲によって焼け野原となった後には闇市がひらかれていた。今は神戸の台所として、八百屋さん、魚屋さん、漬け物屋さんetc...様々なお店が立ち並んでいる。特にこの日は新春のにぎわいをみせていた。この辺りを歩いていると土地に妙な高低差があることに気が付く。天井川だった湊川の名残。
『細雪』に描かれる阪神大水害
少し北上したところに「せんしんはし」と書かれた橋がある。漢字で書くと「洗心橋」。この橋の向こうに刑務所があったことから、受刑者が娑婆に出るときの心境を橋の名に冠したのだろうか。
洗心橋のたもとで、1938年の阪神大水害の写真を見た。この大水害では、湊川のみならず、芦屋川、住吉川、生田川、都賀川と同じく六甲山系を水源とするすべての川で甚大な被害があった。谷崎潤一郎の小説『細雪』に、阪神大水害を描写したところがあり、そこを古川が朗読した。
……いったいこの辺りは、……阪神間でも高燥な、景色の明るい、散歩に快適な地域なのであるが、それがちょうど揚子江や黄河の大洪水を想像させる風貌に変ってしまっている。そして普通の洪水と違うのは、六甲の山奥から溢れ出した山津波なので、真っ白な波頭を立てた怒濤が飛沫を上げながら後から後からと押し寄せて来つつあって、あたかも全体が沸々と煮えくり返る湯のように見える。たしかにこの波の立ったところは川でなくて海、ーーどす黒く濁った、土用波が寄せる時の泥海である。
……至る所に堆積している土砂の取り片附けだけは、事変のために人手や貨物自動車が不足している折柄で、早急には運びようがなく、炎天の往来を行く人々が皆真っ白に埃を浴びている光景は、往年の大震災後の東京の街が再現したようであった。
谷崎潤一郎『細雪』
この水害の凄まじさを文豪は物語っている。映像や写真などのリアルな視覚資料も貴重だが、小説家の記すフィクションのなかからも、生々しい水害の記憶に触れることができる。谷崎自身はこの水害の時は避難先にいたそうで、後に学校の生徒の作文を参考にしてこの箇所を書いたらしい。*
朗読した『細雪』のテキストは、『湊川を、歩く』という本に記されていたものだ。湊川高校の夜間部の先生をされていた登尾明彦さんが書かれた本だ。湊川の歴史、登尾さんが出会った多様な背景をもつ生徒たちとの日々、震災のこと、土地に残る差別などが、登尾さんを通して多くの人に届く文体で綴られている。テキストを読んでいるのに「語り」を聞いているような感覚になる。
登尾さんの『湊川を、歩く』と稲津さんの複数の論考は、今回の企画を実施するにあたって貴重な資料となった。ある意味、戯曲のような存在であり、「おもいしワークショップ〜湊川編〜」はその上演だったとも言えるかもしれない。
さて、川の流れとは逆に、山の方へ向かって少し歩くと、湊川の源流である石井川と天王川が合流する地点に着いた。階段を降りて川の底を歩くことができる。コンクリートで完璧に護岸されているので「川」なのだけれども、塀に囲われた空間に立っているような感じもする。道を歩く人から見下ろされると、ちょっと取り残されたような気分にもなる。護岸した壁には水位の跡が残り、水位の危険度合いを知らせる警報機が設置されている。
階段にあった絶妙な配置のものたち。
雪御所公園のおじさん
石井川と天王川の合流地点はちょっとした三角州のようになっていて、雪御所公園という公園になっている。御所と名のついているのは、昔、平清盛がこのあたりに邸宅を構えていたからだ。公園内には阪神大水害の巨大な慰霊碑が立っている。
事前リサーチでここを訪れた際、偶然出会ったおじさんと立ち話をした。その時のお話が非常に興味深いものだったので、後に記憶をたどって書き起こした。そのテキストを、参加者のお一人に声に出して読んでもらった。
雪御所公園のおじさんは、現在83歳。満州に生まれ、幼い頃に両親と引き揚げてきた。1938年の阪神大水害の翌年に神戸にやってきてからずっと、この近くに住んでいる。戦時中は神戸大空襲を経験し、終戦後は自動車修理工として造船の川崎重工関連の仕事をしていた。朝鮮特需や高度経済成長の時代には、三日三晩寝ずに働くこともあったほど、本当によく仕事をした。59歳の頃に起きた「こないだの震災」(阪神・淡路大震災)では、知り合いを亡くしたり、家の再建やローンなどで大変な苦労をした。
上記は、実際に読んだテキストの要約だ。この方のライフヒストリーには、水害、戦争、震災といった大きな出来事が、ひと続きの生きた記憶として登場する。
text:furukawa yuki
photo:ishii yasuhiko, tomita daisuke
illustration:fujikawa yuki
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